人気ブログランキング | 話題のタグを見る

自由からの逃走と日本社会

東京新宿の花園神社宮司の片山文彦氏は精神科医でもあり、宗教と科学についてきちんとした教育訓練を受けた人物である。しかも花園神社という日本でもっとも猥雑な場所の中の聖なる場所で、新しい芝居などが生まれることを支援してきた人だ。

花園神社社務所では毎月、神道時事問題研究という小冊子を発行しており、片山宮司は非常に広範囲の専門家との対談を掲載されている。今月の明星大学教授の正慶孝氏との対談で極めて重要だと思ったのは、日本でも「自由からの逃走」が起こっているという指摘だった。

ご存知のように、エーリッヒ・フロムは「何故、ワイマール憲法によって完全な民主政治が保証されたはずのドイツ社会にナチズムが広がったのか」という問題を考えるために「自由からの逃走」を書いた。

今の日本が「自由からの逃走」に向かっていることは、多くの人々が同意されるだろう。日本は非常に自由だが、その自由は与えられたものであり、自分が努力して勝ち取ったものではない。また、その自由は他者によって取り上げられるものだという認識もない。

しかし、実存主義哲学者が苦しんだのは、ユダヤ・キリスト教の神の実在を信じられなくなった後に、人間は何を信じれば良いのかということだった。神からの解放は、自分自身が神に代わって、何が正義で何が悪を自分で判断しなければならない。人間には重過ぎる責任だ。だから、考えない。異邦人のようにせつな的に生きるしかない。

日本人は絶対神を知らない。善悪を自分自身が決めなければならない重荷を、多くの人々は自覚していない。幸い、殆んどの人々は究極の選択を迫られることが、今まではなかったが、自由と責任の関係を認識することから目を背けてきたためか、今の日本はカミュの「異邦人」のように、「太陽がぎらぎら輝いていたから殺人を犯す」人々が増えてきているようだ。

しかし、オウム真理教を考えて頂きたい。もっと凄いカリスマが出てくれば、どれだけ多くの人々が自由から逃げて、独裁者の前にひれ伏すのではないか。
by riskyage | 2006-07-30 12:07 | 危ない社会


<< 旧約聖書と原理主義 日本の防衛とテクノロジー戦略 >>